Thoughts.

練習、反省/Practice, reflection

「大人になったなと感じるとき」

今週のお題「大人になったなと感じるとき」

最近友人と久々に食事や遊びに行きました。

数年年上、自分のビジネスを持っている人。

私はもうすぐ別のところに行く予定があるので、「別れ」について話してました。

友人は結構こういうものが闊達で、「仕方ないけどな、でも俺は多分友達とかいなくてもいいかもしれん」とか言いました。

いや、あれは闊達かな。

こういうの仕方ない気持ちは、ある程度でもう慣れましたのかな。

いや、慣れられなくてもまた仕方ありませんかな。

この友人は、たくさん客さんとよく絡んでる仕事をしています。

それで、出会いと別れは多分よくあるかもしれません。

あのよくいろんな理論と知識の頭の中に、なんの感じがしますかね。

そして自分のことを思いました。

自分の中学と高校のクラスメイトはほぼ同じで、見知らぬから仲良くて、ある部分の人と友達になって、卒業してもまだ話しています。

他のクラスメイトとはそんなに馴染んでなかったから、もちろん卒業する時結構残念だった思ったんですけど、友達との離れるの方がもっと感じ深いかな。

そしてこの中の一番仲良くの数人、「親友」と呼ばれるの人たちも、そろそろ大学を卒業します。

高卒から元々もう別の大学に行く人たち、卒業したらどうなるのかな?

彼らと結構よくディスコードで話してるんですけど、やはり卒業したら皆はきっと忙しくなって、通話も徐々に減るだな。

まだ実感があまりないけど、これはいずれ発生することです。

自分はこう思っています。

寂しくなる未来だな。

だとしても、そーんなに「悲しい」「一生会えなくなるかもしれんと思えば落ち込んだ」というの感じではありません。

どうでもいいわけではないです。決して。

たまに「別れに嘆かず、出会ったという事実に感謝」などをきいて、今の自分ならちょっとわかるかもしれない。

ふと考えたら、現実だけではなく、たまにネットでも感じてるな、この寂しさの可能性。

あるチャットルームで別の国と人たちとあって、あそこの数人とオフ会をして、結構楽しいコミュニティです。

サービス終了前一瞬で「数年間ゲームでできた友情、これで終わりか」と思いました。でもディスコードのおかげで、新しい「居場所」ができました。

でも数年後、十年後、皆はまだいるのかな?

結構おかしいな考えですけど、せめてこの数年間皆もまだいると思います。

前の数年から活躍しているなんだからな、って。

せめて自分はこうして欲しい。

大きな言語学習鯖でも、たまに話した人は数日後抜けたことがあります。

リア友と比べたら割と感じが薄いんですけど、やはり「あーあ、この人も抜けたか」という気持ちがあります。でも、慣れたかもしれません。

でもこの全ての人間関係、たとえいつか淡くなって、または消えても、自分も多分...慣れた?

ん?

言葉でうまく言えないですが、多分寂しいけど悲しくない。慣れれるけどどうでもいいわけではない。

皆は自分の見えないところ、ちゃんと生きている。

こう思ったら少し「うん、なる時はそうなるな」と思いました。

以前より、大学の数年間の別れとなんとなく特に感じ薄いほど感じ深いです。

初めて日本の友達ができて、皆と別れたら以後会える機会はほぼないので特にあの仕方ない感じがしますね、多分。出身同じ友達も、以後皆の生活はどんどん違くなって、話しかけて機会もなくなりますね。

こう思いましたんですけど、実際すごく悲しくてならないわけでもありませんでした。

「うん、残念だな。でも未来うまくいけたらいいな」と、思いました。

考えすぎかもしれないですけど。

でも今なら多分別れを慣れて、次も直視できて、さよならが言えるになりました。

が、いつか親友と離れたら、思い出したら苦笑かなw

と、いうずっと思索して、こんなつまらない長文になりました。

結局、大人になったを感じたのはいつ?

それは多分、「別れ」に慣れた時。

自分は楽観的ではないし(これは本当)悲観的でもない(一存)。

ただ事実を認識して、ちょっと...淡然、で受け入れたら、それは大人かな?

どうでもいいではなくて、感情を抑えるではなくて、強いフリではなくて、受け入れるです。

言葉でうまく言えない感情ですね、特に得意言語じゃないの場合。

「それは言い訳か?」

それもあるかもしれませんが、そうでもありませんね。

まだまだですけど、これで、少しでも、ほんの少しでも、大人、になったのかな?